プーチン

プーチン露大統領は18年3月18日のロシア大統領選で再選されました。

全ロシア世論調査センターによれば、候補者の支持率は以下の通りでした(スプートニク「ロシア大統領選挙 候補ら、最後の追い込みに入る」2018/3/12)。

  • ウラジーミル・プーチン氏:69%
  • パーベル・グルジニン氏:7%
  • ウラジーミル・ジリノフスキー氏:5%
  • クセニア・サプチャク氏:2%
  • グリゴーリー・ヤヴリンスキー氏:1%
  • セルゲイ・バブーリン氏:1%
  • ボリス・チトフ氏:1%以下
  • マクシム・スライキン氏:1%以下。

他の候補者を見ると、今回は、パーベル・グルジニン氏(57)が目立っていました。

この人は無党派の成功したビジネスマンなのですが、なぜか共産党の公認候補になりました。

グルジニン氏は民間農業企業となった「レーニン記念ソフホーズ」の社長であり(まるでブラックジョークのようですが・・・)、その企業経営の経験を政治に生かすことを主張しています。

「社会主義の顔をした資本主義」という謎の理念をかかげ、WTO脱退と電気や鉄道、通信システム、大手金融機関等の国有化を公約しました。

そのほか、プーチン氏の恩師の娘であるサプチャク氏が出馬したことが注目され、いつもながら極右のジリノフスキー氏が出馬しています。

結局、さほど魅力的な人材が出ていないので、結局、「プーチン氏しか任せられる人物はいない」というオチになっているのでしょう。

プーチンの経歴①:大出世の謎

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次に、ロシア経済の命運を左右するプーチンの人物像を見てみます。

2016年12月にフォーブスがまとめた「世界で最も影響力のある人物」ランキングでは4年連続でプーチンが一位になりましたが、その経歴を見ると、「そもそも、なぜ40代で異例の出世を遂げ、48歳で大統領になれたのか」という素朴な疑問が湧いてきます。

その答えをつかむのは難しいことですが、今回はプーチンの経歴や人物像に焦点を当ててみます。

国際社会の無法者とみなされがちなプーチンの人生には、一人の人物として見ると、意外に興味深い点が数多くあるからです。

プーチンの本名は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」。

サンクトペテルブルク市がレニングラード市と呼ばれていた頃、1952年10月7日に生まれました(現65歳)。

大統領になる前に出した『プーチン、自らを語る』によれば、不良少年だったプーチンは十歳~十一歳ごろに柔道を始め、更生したそうです。

「柔道はスポーツではない。柔道は哲学だ」とも述べており、外務省HPでは「少年時代に始めた柔道は、1976年にレニングラード市チャンピオンとなり78年にスポーツ・マスターの称号を得たほどの腕前。2000年9月の訪日時には講道館から六段の段位を受けた」と紹介されています。

ややヨイショされていますが、今でも国際社会の「番長」的な存在ではあるので、本当に更生したのかどうかは何とも言えません(どう考えても「優等生」ではない)。

経歴を見ると、1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業。その後、KGBに入ります。冷戦末期に5年間東ドイツで勤務し、帰国した後はレニングラード国立大学で学長補佐官を務めています。

冷戦が終わった後はKGBを辞め、お世話になったサプチャク学長が務める大学で働いたわけです。

サプチャクはその後、サンクトペテルブルク市長となり、プーチンも1994年3月にサンクトペテルブルク市副市長になりました。サンクスペテルブルグ市の№2となった後、サプチャクが選挙で敗れた時に職を辞し、次はクレムリンで働くことになりました。

クレムリン宮殿で働く

プーチンはクレムリンのそばにあるオフィスで大統領府の会計処理とビジネス業務全般のエキスパートになります。

資金管理の才を活かして対外経済関係省の全在外資産の持ち株会社を設立。数百の役所、会社、高級病院やリハビリセンター、78の国にあるロシアの国有財産を監督しています。

この頃のプーチンは忠実で頼りになる実務家だったようです。

プーチンは巧みに身を処し、影響力や支配圏が問題になるときには、大統領府のインサイダーの側につき、汚職が問題になる時には大統領のアウトサイダーにつきました。

「当時、プーチンのように公金横領の疑いをかけられたことがないものは、本当に例外であった」ともいわれています(ミヒャエル・シュティルマー著『プーチンと甦るロシア』P53~54)。

プーチンは権力欲を表に出さず、忠実な実務家として少しずつステップアップし、有事に首相に抜擢され、一気にエリツィンの後継者の地位を獲得することになりました。

この頃のプーチンの出世は異例の速さです。

  • 1997年3月:大統領府副長官および大統領監督総局局長
  • 1998年5月:大統領府第一副長官
  • 1998年7月:連邦保安局長官
  • 1999年3月:安全保障会議書記を兼職
  • 1999年8月:首相

97年頃、エリツィン大統領と「その『ファミリー』はプーチンのことを、権力のエンジニアではあるが、最高権力の座を狙っているわけではなさそうだ」と判断。「控えめな態度が信頼されて、プーチンはあらたな仕事を任され」ることになったようです(ミヒャエル・シュティルマー著『プーチンと甦るロシア』)。

のちのち「帝王」のように君臨するプーチンの姿は微塵もみせなかったので、当時の指導者には、忠実な部下の一人に見えていたわけです。

それが結局、信頼をつかむカギとなりました。

そして、危機の時代に彼は危機管理能力を発揮します。

当時、キリエンコ首相やその後任のチェルノムイムジン首相は経済危機等の有事に対応するには力不足でした。

後に選任されたプリマコフ首相はエリツィンを支持した財閥の取引を告発し、共産党と手を組んでエリツィン追い落としを計るが、それを先に察知したエリツィンに解任されています。手駒を使い尽くしたエリツィンはプーチンに目をつけることになるのです。

チェチェン紛争の責任者に

プーチンの名が知られたのは、チェチェン紛争対策の責任者となった時でした。
1999年にチェチェン人の武装勢力が隣国に侵攻した頃、首都で百数十名の死者を出すテロ事件が起きます。

当時、首相だったプーチンは、チェチェン大統領に「テロリストを引き渡せ」と要求し、無返答と見るや、空爆をしかけて大規模な攻勢を開始したのです。

「過激派を止めなければ、ロシア連邦自体がユーゴスラヴィアになる」

そう判断して断固たる指導力を発揮したことがエリツィン一派に高く評価されました。

当時、連邦保安局長官だったプーチンは大統領府を巻き込む汚職疑惑を追及しようとしたプリマコフ派の検事総長に対して、同氏が映るスキャンダルビデオをテレビ放映して失脚させています。

エリツィンとその一派は、プーチンの忠誠心を評価。エリツィンを支える新興財閥(オリガルヒ)は、強力な独自の政治基盤や経済力を持つ大統領が出現することを恐れ、両者の支持を得たプーチンが台頭するわけです。

この頃、期待されていたのは、政治的基盤がなく、経済的利権にも中立的な人物でした。

プーチンは取り立てて政治基盤もなく、経済的利権にも関わっていなかったので、エリツィン支持層にも「無菌状態」の手頃な候補者に見えた(『プーチンの実像』)

当時の人物像に関して『プーチンの実像』では、以下の評が出ています。

  • 「プーチンは自身のキャリアを通じて、自分が約束したことを誠実に実行するということを実証してきた」
  • プーチンの流儀は「自分のボスに忠誠を誓うだけでなく、周囲の人間にも絶対的な忠誠心を求める」

エリツィンがプーチンに後事を託したのは健康問題が深刻化した頃であり、彼はチェチェン紛争で功績をあげて後継者の地位を獲得したのです。

エリツィン大統領に後継者に指名される

  • 1999年8月16日:国家院の承認を受け首相に就任
  • 1999年12月31日:エリツィン前大統領の辞任に伴い、大統領代行に任命。
  • 2000年3月26日:大統領選挙で当選(得票率52.94%)
  • 2000年5月7日:大統領に就任

プーチンが一気に大統領まで上り詰めた背景は、昔で言えば「国盗り物語」のようなものなのかもしれませんが、その経緯を見ると、意外と自然にいつのまにか出世しているので、「なぜ上り詰めたのか」という決定的な答えが分かりにくくなっています。

プーチンの大出世は90年代の最大の謎だと言えるのかもしれません。

プーチンの経歴②:高支持率の背景

プーチンは今も昔も高支持率を誇っています。

「それは独裁国だからだ」という批判もありますが、一応、合理的な理由がないわけではありません。

プーチンが大統領になる以前のロシアは崩壊状態にあり、プーチンが大統領就任後、ロシアが立ち直ったのは事実だからです。

防衛研究所の『東アジア戦略概観2013』では2012年選挙の模様が描写されています。

「当初、プーチンの得票率は過半数を割り込み、上位2人の決選投票にもつれ込むのではないかとの予測もあったが、選挙直前の世論調査でプーチンの支持率が上昇し、第1回投票においてプーチンは63.60%の得票率で当選を果たした」

「プーチンの得票率は2004年の71%には及ばないものの、数パーセントの選挙不正があったとしても、大統領選挙ではプーチンが圧勝したと評価し得る。ちなみに、共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補の得票率は17.18%であり、2008年の大統領選挙とほぼ同じであることから、反プーチン票は対抗馬である共産党には流れなかったことが確認できる」

「反プーチン勢力からの得票が期待された実業家のミハイル・プロホロフ候補の得票率も伸び悩み、プーチン支持票を大きく切り崩すことができなかった」

こうして見ると、なかなかプーチンに替わるほど強力な指導者がいないのも事実なのでしょう。

また、中央集権でゴリゴリにまとめなければ国がバラバラになる恐れがロシアの中では根強いのかもしれません。

時代背景を踏まえてプーチンの経歴を追っていくと、高支持率な理由はよく分かります(要するに、「それ以前が悪すぎる」ということではあるのですが)。

 ロシアの名目GDPの推移

エリツィンの時代はソ連崩壊後の大混乱の時代でした。

エリツィン時代とプーチン時代の名目GDPを比べると、90年比で見た場合、2000年に半減。2006年で2倍、2008年で3倍、2013年で4倍(15年は激減)という経緯をたどります。

  • 1990年:5168億ドル
  • 2000年:2597億ドル
  • 2006年:9899億ドル
  • 2008年:1兆6610億ドル
  • 2013年:2兆2310億ドル
  • 2015年:1兆3660億ドル

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(世界銀行HPの名目GDPのグラフ:1989-2016)

ロシア崩壊の危機

エリツィンは市場経済への移行を急ぎましたが、物資不足の中で価格の自由化を進め、国債を乱発し、ハイパーインフレを引き起こしました(一時は年率2500%を超えた)。

また、国有企業を民営化する際、国民に該当企業のバウチャー券(株と交換可能)を配ったのですが、当時のロシア国民はその価値を理解できず、わずかな現金と引き換えに売り払ってしまいます。

この株を買い占めた共産党時代の特権階級やその関係者、マフィアなどが大金持ちになり、「オリガルヒ」(新興財閥)が台頭するわけです。
エリツィンはルツコイ副大統領やハズブラートフ最高会議議長などと対立し、1993年9月に議会が大統領解任を主張。これに対してエリツィンは最高会議と人民代議員大会を強制解体。10月には反大統領派の拠点(最高会議ビル)を戦車で砲撃して降伏させました(10月政変)。これは一種の内乱です。

エリツィン政権時代は経済の混乱、チェチェン侵攻の失敗、95年下院選でのロシア連邦共産党の躍進(第一党)など、きわどい局面が続き、再選が危ぶまれました。

96年の大統領選挙では共産党のジュガーノフ議長に破れそうになり、エリツィンはベレゾフスキーやグシンスキーなどの新興財閥(オリガルヒ)の協力を仰ぎました。

(※オリガルヒ台頭の経緯:エリツィン政権が商業銀行から融資を受け、国営企業の株を担保にし、返せない場合にオークションを行った。その際に談合やインサイダー取引が行われ、オリガルヒは大儲けしている)

オリガルヒVSプーチン

当時、新興財閥が石油産業などの多くの国営企業を手に入れたのを見て、プーチンは「石油やガス等の資源は国で管理すべき」と考えました。

その結果、プーチンは大統領就任後に「過去の民営化の見直しは行わないが、政治に介入するな」という方針を打ち出します。

しかし、オリガルヒのほうも黙っていません。

当時、「六財閥七人衆」がいましたが、オリガルヒのうち三人がプーチンと衝突し、悲惨な結末をたどっています(国外亡命して自殺したベレゾフスキー、国外追放のグシンスキー、刑務所送りのホドルコフスキー)。

プーチンとオリガルヒの戦いの中でホドルコフスキーとの対立を見てみます(石川陽平『帝国自滅』)。

  • ロシア資源大手ユーコス社とシブネフチ社を合併させ、さらに株を欧米石油メジャーに売り出す計画をオリガルヒのホドルコフスキーはもち出した。
  • この構想には欧米メジャーが50%以上の株を持つことが含まれており、プーチンはこれを停止。
  • その後、ホドルコフスキーはアジアへのパイプライン敷設計画で中国ルートのライン設置を提案するが、プーチンは日本への輸出も含めたロシア極東の太平洋沿岸部に到るルートを押した(中国ルートに駄目だし)。
  • ここでホドルコフスキーはプーチンに「あなたは中国との関係をつくる重要性を理解していない」と口走り、逆鱗に触れた。ホドルコフスキーは横領や税逃れなどの容疑で逮捕される。

ロシア国民はオリガルヒをよく思っていなかったので、プーチンの支持率は上がりました(石郷岡建『ウラジーミル・プーチン』)。

石油やガスなどの資源産業をめぐる権限を獲得することをテコにして、プーチンは中央政府の主導権を回復。

しかしながら、ロシアの連邦予算の歳入のうち、石油・天然ガス収入が占める割合は、10%超(1999年)→50%突破(2011年)と肥大化します。

プーチンも石油依存型経済に警鐘を鳴らさざるを得ませんでした。2013年では石油・ガス関連収入が歳入の45%を占めているのです(『東アジア戦略概観2013』)。

2015年以降のGDP激減は、資源依存経済の病弊が露わになったものだといえます。

独裁者としてロシア再建:政治制度・税制・軍制の改革

それ以外にプーチンが行った大改革は、中央集権の強化です。

「エリツィン時代は、共産党を含む多くの政治勢力が大統領と対立し、議会もしばしば大統領に立ちはだかった」「新興財閥の主が政治に大きな影響力をふるった。地方の有力首長はまるで独立国の王のように振る舞った。エリツィンは、地方の支持を得る必要に迫られて、地方が連邦法に違反するような条例を作ったり政策をとったりすることを放置していた」(朝日新聞出版『プーチンの実像』P236)

その改革は以下の過程をたどりました(横手慎二『ロシアの政治と外交』P98~102)。

  • エリツィン時代のロシアは93年に憲法を制定したが、その際に支持を取り付けるために6つの共和国に連邦憲法の規定外の特別の権限を与えることに同意(権限分割条約)。
  • この条約は98年までに46もの数に上ったため、この時代のロシアの中央政府の権限は弱かった。
  • 98年9月に金融危機が起こると、多くの共和国が連邦政府への税金引渡しを拒んだり域外に搬出される物品に関税をかけたりして自主財源の確保に奔走し始めた。
  • 99年以降、中央集権化が進められる。プーチン政権は、2000年にロシア全土を7連邦管区に分け、各管区に大統領全権代表を任命し、知事を監督させた。大統領に地方首長の解任権を与え、地方首長が上院議員となり連邦政策に介入することを禁じた。

要するに、ソ連崩壊に伴い、ロシアは空中分解しつつあったので、これを巻き直したわけです。

その後、プーチンは大統領を二期八年務め、部下メドベージェフに首相を譲り、その後、12年に大統領に戻ることで「合法的」に独裁政治を確立しています。

プーチンは「独裁者」ではあるのですが、対抗馬のいる選挙を経て当選している点は、中国の習近平や北朝鮮の金正恩とは大きな違いとなっています。

そのほか、米国の経済学者たちとの会食の席で13%のフラットタックス(一律税制)の導入を決めたのも特筆すべき点です(ラッファーほか著『増税が国を滅ぼす』)。

経済学者は20%の所得税導入を提言したのですが、プーチンは所得税にかかる3段階の累進課税制度(12%、20%、30%)を改め、13%のフラットタックスを導入しています。

ロシア軍に関しても、300万人(1989年)から113万人(2005年)に削減。徴兵制の軍を志願兵制に変え、100万人にまで精鋭化しています。

そのほか、ロシア正教の再建なども行われました。

欧米や日本の市民から見た時、今のプーチン体制がよいとは言いかねるのですが、それ以前の混乱期に比べると、「プーチン的な秩序」がもたらされたとは言えます。

プーチンによる「国民との直接対話」

他の独裁者と比べて異例なのは、プーチンが「国民との直接対話」を行っている点です。

これはプーチンが、直接、国民からの質問に答える恒例のテレビ生中継番組です。

17年には6月15日に4時間の長時間出演をこなしました。

16年末にも長時間の記者会見(3時間47分)をこなし、直接に記者の質問に答えています。

プーチンが当意即妙のやり取りを見せるので、非常に面白い企画です。

最近は、安倍首相も党首討論を面倒がっているぐらいで、民主主義国の指導者でもプーチンのように4時間にわたって国民の質問に答えたりはしていません。

これができるのはKGB時代から鍛えられたプーチン氏の明敏な頭脳のためだとも言われています。

プーチンは「独裁者」ではありますが、一応、選挙で選ばれていますし、こうした機会を通して、国民や記者の質問に答えているのも事実です。

このあたりが、金正恩や習近平との大きな違いになっているわけです。

(むろん、これは国内のガス抜きの一つではある)

そのため、その質疑の見所を紹介してみます。

2017年の「国民との直接対話」の主要発言

注目したポイントの違いを見ると、各紙の関心のありかが分かります。

産経ニュース(2017.6.16)は北方領土をめぐる発言に注目しました(「プーチン氏露大統領が国民対話 北方領土「日米安保が障害」」)

 日露が合意した北方領土での共同経済活動については、領土問題解決への「環境づくり」に資すると指摘。その一方、同活動に向けては「地域の安全保障」や「日本の同盟国に対する責務」が問題になるとし、綿密な検討が必要だと述べた。

毎日新聞(2017.6.15)は対露制裁への反応と経済成長に着目しています(「対露制裁「重大ではない」 国民との対話」)

  • 日米欧の対露制裁⇒「ロシア経済に影響はあったが、重大ではない」
  • 米上院が14日に可決した対露制裁強化法案⇒「根拠がない。米国内の政争が続いているということだ」
  • 今年1月~4月までの成長率が前年同期比0・7%増⇒「ロシアは経済停滞期を克服し、成長期に入った」

日経電子版(2017.6.15)では米露改善に期待を寄せたのか、関係改善を望む発言を紹介しました(「プーチン氏、米国に協力呼び掛け 『建設的対話を』)

(プーチンは)米ロが協力できる分野としては大量破壊兵器の拡散防止、イランの核開発問題やウクライナ問題を列挙。トランプ米大統領が離脱を表明した地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」については「この分野で米国抜きで何かを合意するのは意味がない」と再交渉に応じる考えを示し、トランプ氏への配慮を見せた。

米大統領選へのロシアの介入疑惑に関するコミー前米連邦捜査局(FBI)長官の証言には「コミー氏は全く証拠を示さなかった」と強調。米国こそ過去のロシアの選挙に介入しようとしてきた、と批判した。

シリア内戦を巡ってアサド政権を支援することなどが語られています。

ロシアメディアのスプートニク(2017.6.15)では、後継者についての質疑も取り上げられていました(「プーチン大統領、後継者に関する質問に答える」)

(後継者は誰かという質問に関して)「第一に、私はまだ働いている。二つ目に、私が言いたいのは、これは有権者、ロシア国民が決めるべきことであるいうことだ」と述べた。

「私はもちろん、いつかは(自分の考えを)はっきりさせ、私の考えはこうで、このように形作られていると述べるのを全く恥ずべきことだとは思っていないが、最終的に、我々は、有権者、ロシア国民、彼らのみが、地域、具体的な地区、都市、地方あるいは国を誰が率いるのかを決めることができることを忘れてはならない」

他の記事では、二人の娘はモスクワで普通に暮らしていることなどが明かされていました。

こうしてみると、プーチン氏は、けっこう、率直に政治の現状を国民に語っています。

同氏には独裁的な傾向が根強いのですが、それでも、一応、国民への説明責任や「投票」という民主主義的な過程を無視しているわけではありません。プーチン大統領は、民主主義的な「独裁者」という、現代の世界では異例のリーダーだと言えます。

2016年の年末大記者会見の内容は?

2016年末にも、プーチンは記者向けに約4時間の質疑応答をこなしています。

その要点はsputnik日本語版の記事(「プーチン大統領の年次記者会見【動画・写真】」/ Alexei Druzhinin、2016/12/23)に出ていました。

  • 「ロシアのGDPは昨年3.7%縮小した。今年も多少の縮小し、おそらく0.5%から0.6%落ちる」
  • 「農業支援には2160億ルーブルが拠出される」(※ロシア穀物は豊作。コメ自給国になり、1億2千万トンのうち4千万トンが輸出される)
  • 「昨年、我々はGDPの2.7%を国防に費やした。今年、この割合は4.7%となり、来年は3.3%、その先は2.7%になる」
  • 「米国共和党員がロシア大統領に親愛の情を示していることを私は、彼らの抱く世界構造や価値観のイメージが我々のそれと一致しているサインだと受け取っている」
  • ウクライナと欧州間のビザなし渡航体制について諸手を挙げて支持する!
  • スホイ24機がトルコ政権の命令もなく撃墜されたというデーターを懐疑的に受け止めていたが、今回の大使暗殺で見解を変えざるをえなくなった(※トルコ国境付近でロシアのSu24が墜落している)
  • プーチン大統領は原油価格は上がると予想している。 プーチン大統領は、ロシアは引き続きOPECと協力していくと強調。
  • (クルド人独立に関して)プーチン大統領はクルド人は国際法の枠内で行動すべきとの見解を示し、「我々はイラクの内政に干渉するつもりはない」と語った
  • プーチン大統領はロシアと中国の関係レベルを「極めて高い」と性格づけた(※これは日本は中国を参考にすべきだという趣旨)

プーチンは「経済は厳しい」としながらも、平均値でGDPの3%を国防費に回すと述べています。いつのまにかロシアが農業輸出国になっていたのが、筆者には意外でした。

ロシアの強大な軍事力 日米同盟は手放せず

日本のメディアでは、この中の核戦力強化の発言などが紹介されています(産経ニュース:プーチン露大統領、核戦力の近代化を強調 トランプ発言を牽制「米より効果的」12/24)

プーチン氏は、戦略爆撃機や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)など陸海空の「核の3本柱」の近代化を進める考えを強調。「われわれのシステムは、(米国主導の)MDよりはるかに効果的だ」と強調した。

アメリカとロシアは、核戦力に関して、長距離爆撃機(爆弾及び巡航ミサイル)、原子力潜水艦(長距離弾道ミサイル)、陸上発射型長距離弾道ミサイルの三種類で牽制し合う関係になっています。

これは旧ソ連時代から変わりません。

ソ連崩壊後、ロシア軍も一時期弱体化したのですが、プーチン氏は資源景気をてこにロシアを再建し、そのお金でロシア軍の近代化を進めました。近年では、陸海空の三種で新式の核戦力が整いつつあります。

米露関係を規定する条約の中で「中距離核戦力全廃条約」はとりわけ重要ですが、ロシア軍はイスラム国攻撃でKh-101という巡航ミサイルを発射しました。これは射程3000~5000キロの高性能ミサイルなので、前掲の条約に抵触するとも言われましたが、プーチン氏は意に介していません。

戦闘機並みの速度で飛べる高速爆撃機ブラックジャックからこれを撃てるため、ロシア空軍の核戦力は中国とは桁違いです。ロシア軍は原潜運用に関してもソ連時代の蓄積があるので、中国軍よりも進んだ技術を持っています。

産経新聞は、プーチンが2017年の「国民との直接対話」で、北方領土交渉では「日米安保が障害」だと述べたことを報じましたが、ロシアの軍事力を見ると、日本が米国との同盟を捨てられないことがよくわかります。

日本には通常兵器しかないので、自国を守る上では、日米同盟を維持しながら、中露双方を敵に回さないようにしなければいけないのです。

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